「嫌われる勇気」なくても、嫌われる論

アドラーの名著『嫌われる勇気』。

 

f:id:entertainmentgasukidesu:20180217185504j:plain

 

これが書店に並んでしばらく、職業柄かなりの頻度で目にするそのタイトルに、僕は突っ込みたくて堪らなかった。

 

 

 

 

 

 

「嫌われる勇気」なくても、嫌われる。

 

 

 

 

「嫌われる勇気」なくても、嫌われる。

 

別にアドラーに異論を唱えるとか、そういう遅咲きの反抗期を突き進んでいるわけではなく、単純に、他者から嫌われる勇気なんて1mmも持ち合わせていないけれど、それでもなお余裕で嫌われるということ。(僕が?ええ、僕が。)

 

 

「嫌われる勇気」とは

本著の中で言われている「嫌われる勇気」は、超要約するとつまり「ありのままlet it go」ということであり、

 

「他者から嫌われないように自分を押し殺して生きるより、他者から嫌われる勇気を持ってあなたらしく生きる方が幸せです」ということ

 

 

(で、いいのかな??)

 

 

「嫌われる勇気」とかじゃなく、自分の思うように生きるだけ

 

これに対して、個人的に思うことは、結局「嫌われる勇気」がなくても嫌われるときは嫌われるんだから、無理して「嫌われる勇気」持って「ありのまま」生きるぞ!と気負わなくてもいいかな、と。

 

他者に同調したり媚びたかったら好きなだけ媚びればいいし、そういう他者とのコミュニケーションの方法も、自分らしさの一部であるので。

ウダウダ言っとりますが、つまるところ、流れに身を任せればいいじゃないかと思っております。

 

スタンスを決めて生きなくてもいいじゃないか、と。

 

 

嫌われていることを「嫌われる勇気」のせいにしてる奴が、いちばん嫌い。

 

アドラーの言う「嫌われる勇気」の本質の1つとして、「嫌われることを怖がらない」ことがあると思っていて、それ自体は非常に良いことだけど、人の解釈によっては意味がズレてしまうこともあるかなと思ったり。

 

「嫌われる勇気」を持つと、実際に他者から嫌われる際に、「うん、だって嫌われる勇気持ってるから仕方ない」と開き直る可能性ありません?

本当は違うところの理由があるのかもしれないのに、「嫌われる勇気」を持っているから、嫌われました。何か?

 

 

 

(こういう人いるんですわ…)

 

 

 

「嫌われる勇気」を持ったから、自分の意見をストレートに相手にぶつけても、レリゴーでノープロブレム的な。

 

いやいやいや。

 

不必要に他者を不愉快にしている場合があって、きっとアドラー言いたいのそういうことじゃないよと思うんですよ。

 

もしかしたら自分が無意識的にやってしまっていることで「ムダに」他者を傷つけたり不快にしているかも知れなくて、そういう「嫌われ」パターンにおいては「嫌われる勇気」とかじゃなく、ちゃんと自省をしなきゃと。

 

 

 

「嫌われる勇気」は別に必要ない

 

だから、特に「嫌われる勇気」を持とうとする必要はなく、

 

単純に「自分がこうしたいな」と思ったことをすればよくて、

 

連れション誘われて嬉しかったら、尿意を偽ってでも別に行けばいいし、

 

連れションまで行ったのに、なんか知んないけど嫌われたのであれば、

 

適度に自分に原因を探し(自省し)ながら、まぁ嫌われることもあるかと思えばいい。

 

 

 

……。

 

 

 

 

 

( は? 結局どうゆうこと? )

 

 

 

ごめんなさい、僕もよく分かりません。

 

 

   Kindleで 『嫌われる勇気』 を読む  

 

 どの書店で買えばいいか分からない…!
という方は、
 

www.omaeha-warauna.com

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ABOUTこの記事をかいた人

本メディア『お前は笑うな。』は、本・漫画・電子書籍・VODなどオススメのエンタメ情報を発信するメディアです。 運営は、株式会社ロビンソン・クルーソー。 元・電子書籍の書店員だった代表をはじめ、様々なエンタメ分野に精通するライターによって、最新のエンタメ情報を提供してゆきます。